孫正義氏に学ぶ、目の付け所記事一覧

孫正義(そん・まさよし)とは、ソフトバンク・グループの創始者であり、中国の孫氏をルーツを持つ実業家だ。佐賀県で在日韓国人実業家の息子として生まれ、ホリエモンも学んだ久留米大附設高校に学ぶ。維新の志士の一人である坂本龍馬に憧れ、高校を中退してアメリカに留学する。そしてカリフォルニア大バークレー校在学中にアメリカでソフトウエア会社を始め、日本から中古のインベーダーゲームを大量輸入するなどして儲けたとい...

孫正義氏の目の付け所に注目して、孫正義氏のビジネスについて再検討してみよう。孫正義氏は高校を中退しアメリカに渡る。中退したと言っても、もちろん頭が悪かったわけではない。というのも通っていた高校は九州の名門久留米大附設で超進学校であったからだ。九州というと鹿児島ラ・サールが有名だけど九州のみならず西日本全域から頭の良い奴が集まってくる学校らしい。元ライブドア社長のホリエモン(堀江貴文氏)もこの高校か...

アメリカ留学から帰国した孫正義氏は、1980年に福岡で日本ソフトバンク社を設立する。アメリカで作った会社では、ソフトウエアを開発して日本の企業に売ったり、日本から中古のインベーダーゲームを輸入して、喫茶店やゲームセンターにリースする商売を行っていたらしい。だからそのままアメリカに残って事業を継続するという選択肢もあったはずなのだが、日本に帰国するという選択肢を選んだ。事業が上手くいったら、そのまま...

日本に帰国し、事業の柱にパソコンソフト事業を選んだ孫正義氏。5年後に売り上げを100億円に伸ばすと宣言し、従業員にほら吹き扱いされつつも精力的に営業活動に励んでいたらしい。しかし福岡の田舎では、ソフトウエアの仕入れも販売も難しい。そこでソフトウエアハウス(ソフト開発企業)やパソコンソフトの小売り会社とリレーションシップを築くために一計を案じる。大阪で開催されるエレクトロニクスの見本市に800万円を...

1981年の創業時に、5年後に売り上げを100億円にすると豪語して従業員にあきれられたという孫正義氏。しかし創業2年後には、パソコンソフトの卸業とパソコン関連出版で、35億円まで売り上げを伸ばす。しかし孫氏は重症の肝炎にかかっていることがわかり長期入院のために、社長業からいったん身を引く。会社の方は、急成長時に良くあることだが、人材流出(いわゆる引き抜き)が起こったり、新たな収入の柱として始めたデ...

明治維新以来、日本はきわめて短期間で工業化に成功した国だと言われる。工業化というのは、農耕を中心とした社会から工業を中心とした社会に移行することだ。そのためには規格化・専門化・同時化・集中化が必要で、また生産規模の極大化も起こってくる。規格化というのは簡単に言うと、部品の大きさだとか重さなどを定めることである。専門化というのは全部を一企業で作るのではなく、ある特定の部品だけを作る企業がたくさん出来...

1980年のアメリカは、不況なのに物価が上がるスタグフレーションに悩まされていた。そこで「強いアメリカ」を標榜して大統領に当選したのが、共和党の元俳優ロナルド・レーガンであった。レーガンは強いアメリカを復活させるために、レーガノミクスという政策をとった。レーガノミクスというのはウィキペディアの記述によると、減税により、労働意欲の向上と貯蓄の増加を促し投資を促進する。福祉予算などの非国防支出の歳出削...

アメリカのレーガン大統領の行ったレーガノミクス。ソ連との冷戦に勝利して、この冷戦を終結させる。この目的では大成功であった。建国60年を迎えていた世界初の社会主義国ソ連は、計画経済による度重なる失敗によって疲弊していた。ソ連はこのままではどうしようもない、85年には一か八かの戦争に打って出るのでは?という事を言う人まで出てきていた。そして実際、1979年にソ連のブレジネフ書記長がアフガニスタンに軍を...

1980年代始めに始まった、アメリカ・レーガン大統領のレーガノミクス。この要点は、減税によって可処分所得を増やし、規制緩和によって企業活動を自由にし、ドル高にして海外からも資金を集め、軍拡によって政府も財政投資を行う。…というものであった。減税と投資が同時に行われたわけだから、景気が良くならないわけがない。なのでレーガノミクスは世界の流行になった。その流れで日本でも、1985年に三公社五現業の民営...