パソコンソフトの流通ビジネスを手がける

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日本に帰国し、事業の柱にパソコンソフト事業を選んだ孫正義氏。

 

5年後に売り上げを100億円に伸ばすと宣言し、従業員にほら吹き扱いされつつも精力的に営業活動に励んでいたらしい。

 

しかし福岡の田舎では、ソフトウエアの仕入れも販売も難しい。

 

そこでソフトウエアハウス(ソフト開発企業)やパソコンソフトの小売り会社とリレーションシップを築くために一計を案じる。

 

大阪で開催されるエレクトロニクスの見本市に800万円を投じて大きな出展スペースを確保して、中小のソフトウエアハウスに無料で営業スペースを提供したのだ。

 

当時はまだ、パソコンソフトの流通経路が確立しておらず、ソフトウエアのベンダーとパソコン専門店が直接取り引きしていた。

 

任天堂やタイトーといった企業以外は殆どが零細企業で、自社の作ったパソコンソフトをお金をかけて売り込むのが難しかった。

 

だから見本市に出展したいソフトウエアハウスもたくさんあったが、たった数日のイベントに何十万も払って売り込みが出来る会社は、まだほんの一握りの企業だけだったのだ。

 

孫氏はアメリカ留学の経験から、そんな零細ソフトウエアハウスの中にも、将来の大企業に成長する企業があるに違いないと踏んだらしい。

 

そこで海のものとも山のものとも知れぬソフトウエアハウス十社以上に、見本市への無料出展を持ちかけ、彼らとつながりを持ったわけだ。

 


無料招待で人脈を作る

福岡でパソコンソフトの卸事業を始めた孫氏は、全国の中小ソフトウエアハウス十数社に大阪の見本市に無料出展させることで彼らとリレーションシップ(つながり)を築く。

 

そして見本市が終わった数ヶ月後には、関西の大手家電チェーンの上新電機から、パソコン専門店へのソフトウエア供給を請け負う。

 

見本市に無料招待して、国内のソフトウエアハウスの経営者や営業担当とつながりを持ったことでソフトウエアのベンダー情報を網羅できたのだ。

 

またすでに大手パソコンソフトメーカーに育っていたハドソンとも契約を結ぶことに成功した。

 

これによってソフトバンクは、パソコンソフト卸会社として認知されることになった。

 

家電量販店やパソコン専門チェーンにとって小売店が数十社もある仕入れ先から個別に価格交渉を行って商品を仕入れるより、ソフトバンクに商品仕入れを依頼するだけで良くなり、ソフトバンクはパソコンソフトの流通の5割のシェアを握った。

 

一方、パソコンソフトを紹介するために出版事業も始め、様々なパソコン雑誌や専門書を世に送り出す。

 

このようにしてソフトバンクは、パソコンソフトの川上から川下、そしてソフトのユーザーまでを結ぶことに成功したわけだ。

 

これによってソフトバンクは、創業わずか2年目にして売り上げ35億円企業となった。

 

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