アメリカで成功するも、親族がいる日本に帰国

アメリカ留学から帰国した孫正義氏は、1980年に福岡で日本ソフトバンク社を設立する。

 

アメリカで作った会社では、ソフトウエアを開発して日本の企業に売ったり、日本から中古のインベーダーゲームを輸入して、喫茶店やゲームセンターにリースする商売を行っていたらしい。

 

だからそのままアメリカに残って事業を継続するという選択肢もあったはずなのだが、日本に帰国するという選択肢を選んだ。

 

事業が上手くいったら、そのまま継続したくなるのが、我々一般人の普通の考えであるのだが、そんな小さな成功では満足できなかったのかも知れない。

 

もちろん、アメリカでソフトを作って日本企業に売る、日本で流行ったインベーダーゲームをアメリカに運んで、リースで儲ける。

 

そういう形で事業を行っていたわけだから、日本とアメリカを股にかけたビジネスに大きな商機を見いだしたのかも知れない。

 

ちなみに日本では最近、英語学習熱が盛んになってきて、英語で授業を行う大学や高校も増えてきたが、英語だけ出来るようになっても、実はビジネスに役立たない。

 

なぜならそれは、世界に十億人以上いる英語圏の人間と、まともに勝負すると言うことになるわけだから。

 

そんな激烈な競争社会に勝ち抜くには、英語が話せるくらいでは到底太刀打ちできない。

 

アメリカで経済学を修め、熾烈なビジネス競争にも触れた孫氏は、英語圏で事業を大きくするより日本で事業を行った方が成功確率が高いと判断したのかも知れない。

 


パソコンソフト販売を儲かる事業として選ぶ

孫正義氏は日本に帰国後、何の事業を日本で始めるのか、1年以上かけて、じっくりと考えたそうだが、結局パソコン・ソフトの仕入れと卸売りを選択した。

 

そして1980年、福岡に事務所を開き、翌年「ソフトバンク株式会社」を設立する。

 

1980年代はまだパソコンというのは、一部のマニアのオモチャのようなものであり、今のように誰でも持っているようなモノではなかった。

 

私が大学に入ったのは1980年だったが、当時は富士通のFM7なんて言うパソコンがあり、パソコンを持っている友人は「ドアドア」なんていうドアを開けたり閉めたりするだけの非常にシンプルなゲームをやっていた記憶がある。

 

ウインドウズ95が発売されて、インターネット時代の幕が開くのは1995年で1980年というとその15年も前のことだから、そんな時代にパソコンソフトに目を付け、それを事業の中心に置いたところに、孫氏の先進性がある。

 

当時はパソコンの卸売りなども手がけていたようだが、次第にソフト販売にシフトし、ソフトの関連書籍の出版社も立ち上げた。

 

つまり、パソコンハード、パソコンソフト、ソフトの紹介や使い方という三方面で展開していたわけだね。

 

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